*[site]

GOTH展
  ピュ〜ぴる Dr.ラクラ リッキー・スワロー
アース
ピピロッティ リスト:からから
  《Ever Is Over All》 《溶岩の坩堝で我を忘れて》 《星空の下で》 《膝ランプ》
文学の触覚
  《情報を降らせるインタフェース》
スティル/アライヴ
  屋代敏博
わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者
  キムスージャ 高嶺格 舟越桂 高松次郎 澤田知子 河原温 郭徳俊

 クレイ・アニメーション《God Bless America》は、国立国際美術館のテキストによると、「作家がセットの中に寝泊まりしながら18日間かけて撮影したもの」で、「2トンもの粘土と格闘する、大変な肉体労働の」日々だったのだという。作品を見てみると、男女2人での協同作業であることが分かる。その様子はどこか、ジョン・レノンオノ・ヨーコが、ハネムーン先のホテルで行ったパフォーマンスを彷彿とさせる。

 セットの真中にどっしりと据えられた大きな油土の塊が、目まぐるしく変貌してゆく。強く印象に残っているのは、カリカチュアされたブッシュ大統領の頭部が変貌を重ね、「God bless America My home sweet home」と惚けたように歌ってみせる場面である。セプテンバー11の惨事から立ち直ろうとする人々が口ずさむ愛国歌が、いつしか偏狭さを帯び始めるや、ブッシュの軍勢はアフガニスタンに侵攻した。愚かな過ちの上に、更に間違いを塗り重ね、世界を抜き差しならぬ事態へと向かわせようとする彼らの時代を象徴する歌として、やがて記憶されるのだろう。私はその歴史の評価を、油土の奇妙な歌声に聞くような気がした。

 ところで、同じテキストによると高嶺格は、「この作品は単純なアメリカ批判ではない」と述べている。ことさら反米色を際立たせた作品ではないことは、その内容からも窺える。油土との格闘は、不条理に対する抵抗の試みとして始められる。傲慢さをいや増す米国に対する嫌悪と反撥は、ブッシュ大統領を不条理の象徴として登場させた。この像を解体する作業は偶像破壊と言えそうだが、それはまた、私たちの隷属的な在り方にも矛先が向けられているのである。解体には造り替えが伴う。その生み出された形態の幾つかは、私たちが抱く理想としての米国や、米国人のイメージなのかも知れないが、だとしてもそれに留まるものではない。愛国歌を正体もなく口ずさむのを快しとしなかった米国人、不条理に対して叛旗を翻すであろうそれらの人々との連帯を希求する、そんな気持ちの表れでもある。隷属的な関係を解体してゆくにつれ、今後のあるべき、自由な市民関係が見えてきたのである。

 隷属的であり続けるということは、他国の市民の犠牲を承知の上で、身の安全を図るということに他ならない。実際、イラク攻撃の前夜、その疑義を正そうともしない日本政府の無情がまかり通ってしまった。紛争解決への努力が、蔑ろにされてしまったのである。爆撃に晒された市民にとって、私たちもまた不条理の存在であったに違いない。カミュは、理解することは道徳だと言った※。人間としてのプライドに従った結果、その者は不条理に抵抗する必要を知るのである。だがプライドを省みないのであれば、屈服するしかない。あるいは不条理に加担したり、それを演じたりすることにもなりかねない。この国から不条理の属性を取り払うには、まず私たちが、不条理に加担していることを自覚しなくてはならない。そして「理解する」ことにより、ようやく件の連帯へと繋げてゆくことが出来るのである。

 私たちにはもっと多くの、「理解する」藝術家が必要だということを、最後に付け加えておきたい。彼らの藝術は国防力でもある。軍備の拡張、まして核兵器保有など不必要かつ邪魔になるだけである。大勢の「人間」が住む国であるということを、世界中に認識させることが肝要なのだ。優雅さに欠け、貪欲で、平均寿命ばかりが延びている人々が住む国、短絡的な暴力と異常者の大活躍が売り物の、映画や漫画が溢れ返る国という印象が定評となれば、最後の一線を越え易くさせるだろう。人格を尊重されている人間が相手だと、破壊を仕掛けるのが難しくもなるものだ。

   ※カミュ著、宮崎嶺雄訳、『ペスト』p.155、新潮文庫、1969


http://www33.ocn.ne.jp/~artv_tenpyo/tenpyo/webtenpyo/3-5/ishibashi-takamine.html

舟越桂新作展
ASK?
いのちの食べかた
映像をめぐる7夜
  the Voice-over 〜 内なる映像 山川冬樹
リサ・ライター展
ギャラリー・ショー
hiromiyoshii
菅 木志雄
マリオ・ガルシア・トレス:ポケット スクラッチング
Daniel Lee “Jungle”
ASK?
アートは心のためにある:UBSアートコレクションより
  アンドレアス・グルスキー オリヴォ・バルビエーリ マッシモ・ヴィターリ ウォルター・ニーダーマイヤー トーマス・ルフ トーマス・シュトゥルート シュテファン・バルケンホール オラファー・エリアソン フィッシュリ&ヴァイス
地中美術館
  ジェームズ・タレル ウォルター・デ・マリア
家プロジェクト
  ジェームズ・タレル 宮島達男
ベネッセハウスミュージアム
  ヤニス・クネリス ブルース・ナウマン 柳幸典 須田悦弘 クリスト&ジャンヌ・クロード
ベネッセハウス屋外
  三島喜美代
エイヤ=リーサ・アハティラ展
  《祈りのとき The Hour of Prayer》
Art-Full 2 CIRCULATION 天から地から 多田正美×柴田敏雄
  柴田敏雄
Large Photographs -柴田敏雄、多田正美、森村泰昌-
  柴田敏雄
東野哲史 展 WKM/OO
Paul Johnson 'Sensitive Chaos'
Sissi "Over the glance ties the rope"
アーティスト・ファイル 2008?現代の作家たち
  エリナ・ブロテルス さわひらき
ヴィック・ムニーズ展 “This is Vik Muniz”
第2回シセイドウアートエッグ
李禹煥個展:「李禹煥
パラモデルの無量ドット建設」展
サラ・ジー

サラ・ジーは1969 年ボストン生まれ、現在ニューヨークを中心に国際的に活躍するアーティストです。大規模のインスタレーションとして展開される彼女の作品の多くは、欧米をはじめとする美術館で制作されており、日本では金沢21 世紀美術館に所蔵作品がありますが、個展としては今回が初の開催となります。
ジーの作品は、画鋲やペットボトル、薬、チューインガムといった、日常的に手に入る量産されたごくありふれた「もの」を素材としています。生活世界で既にひとつのアイデンティティを持つそれらは、ジーによって規則性や配列を伴う構成の中に取り込まれることで、別の次元の存在となって現れます。ジー自身が展覧会会場に何週間も滞在し制作するというのも特徴であり、彼女の気配が展示空間には色濃く残ることとなるでしょう。
一見非常に現代的に思えるジーの手法ですが、生気のない素材にいかに息を吹き込み、形を出現させるかという、彫刻の伝統的な挑戦に基づいています。実際、無機的な量産品の集積である作品にはランプや扇風機といった人工的な動力が組み込まれています。それは常に動き続ける都市特有の有機性を思わせ、強迫・妄想観念にも似た多数の「もの」たちが規則的に存在する姿は無数の生き物の群を思わせます。偶然と必然、はかなさと力強さ、規則性と乱雑さ??ジーの世界はまるで振り子のように相反する出来事との間を往来します。見慣れたはずのものから別のイマジネーションを導き出す。それはエルメスも同じように探し続けている日常の中に潜むファンタジー、もう一つの世界の発見です。メゾンの中で静かに繁殖してゆくジーのファンタジーは、大都市がはぐくんだもうひとつの仮想風景かもしれません。

コバヤシ画廊
アートスペース羅針盤
大西伸明:無明の輪郭
銅金裕司展 生と死の半分あるいは「manuality」
横尾忠則 「温泉主義」
中上清 展
people nowhere
ギャラリー・ショー
福居伸宏 "ジャクスタポジション"
ジェレミー・ディッキンソン 展
川俣正:〔通路〕